「……もしもし?」『春花、仕事終わった?』「うん、今帰るところ」『お疲れ様。今日ちょっと遅くない?』「シフト勤務だからこんなものよ」『いや、絶対遅いよ。こんな時間まで何してたんだ?』「仕事だってば」『待ちくたびれたんだけど』「……何か用事?」『彼氏が会いに来てやったのにその言い方はなんだ?』「……家にいるの?」『そうだよ。なんか悪いか?』「……ううん、すぐ帰る」携帯電話をカバンに押し込むと、春花は殊更大きなため息をついた。去年合コンで知り合った高志は大手企業勤めで寮暮らしをしている。優しくて思い遣りのある男性で印象がよく、高志からのアプローチやまわりから持て囃されて付き合い始めた。だがよかったのは最初のうちだけだった。日を追うごとに高志からの束縛が強くなっていったのだ。――どこへ行くんだ ――帰りが遅い ――俺以外の連絡先は消せ言われるたび春花は不快な気持ちになり、精神はゴリゴリと削られていく。そうして溜まった不満を爆発させれば大喧嘩に発展し罵られ、春花は泣いてしまう。それなのに結局最後は高志が泣いて謝るというパターンがここ最近の二人の付き合いだった。――春花が好きだから ――ずっと一緒にいたい ――春花がいないと俺はダメだそう言われてすんなり受け入れるほど春花も子供ではない。春花自身、高志がモラハラなのではないかと考えたりもする。けれど泣いてすがってくる高志を簡単に蔑ろにするほど残酷にはなれないでいた。高志を突き放す勇気もなく、なんだかんだ許してしまう春花は甘いといえよう。(でも今日こそ別れを告げてやる。今日こそは……)
決意を胸に帰宅した春花だったが、部屋には合鍵で勝手に入った高志が酔いつぶれて寝ているという最悪な有り様だった。テーブルの上には数本の飲み終わった缶ビールと、中途半端に残ったコンビニのつまみ。「ちょっと……」不快なため息をつくも、当の本人には届くわけもなく、ぐーすかと眠りこけている。いっそのこと蹴飛ばしてやりたいとすら思えるほど、春花は頭に血が上った。彼氏だからといって何をしても許されるわけがないのに、高志はいつも我が物顔で春花の家に入り浸っている。どんなに高志が酔いつぶれて寝ていようが、どんなに自分勝手にしていようが、見捨てられるわけがないと思い込んでいる高志。甲斐甲斐しく世話を焼いてしまう春花の優しさを逆手にとって、自由気ままに過ごしているのだ。そんな高志の思惑にも、薄々気付いている。春花の気持ちはもう限界に近かった。(いいかげん、早く別れなくちゃ……)春花は高志に気持ちばかりの毛布だけ掛けてやると、部屋の明かりを最小限に暗くした。もう朝まで起きないでほしい。 話をしたくもない。 早く朝になって仕事に行ってほしい。春花は部屋の隅で小さくなると、携帯電話にケーブルを繋ぎイヤホンを耳にぎゅうっと押し当てた。イヤホンから流れるピアノの音。 重厚なその音は、優しくて心地よくて音楽の波にふわりと包まれるそんな感覚。 嫌なことを忘れさせてくれるような癒しの旋律。携帯電話の画面に表示されるアルバム名は『桐谷静』だ。静のソロアルバムは、春花の生活になくてはならない必須アイテムだった。
そんなある日のこと、郵便受けに一通の手紙が届いていた。「お母さんから?」差出人は春花の母からだったが、開けてみるとまた封筒が入っており、その宛先は実家の住所が書かれていた。実家に届いた郵便を、わざわざ母が春花に転送してくれたのだ。「何だろう?」封筒の裏面を確認して、その差出人の名前に春花は心臓が止まるのではないかと思うほどドキッとした。「……桐谷くん?」走り書きのように名前だけ書かれたその字体は紛れもなく静の筆跡で、もう卒業してずいぶん経つというのに高校生の頃を彷彿とさせる。静の筆跡を忘れるわけがない。ドクンと心臓が高鳴る。緊張だろうか動揺だろうか。春花は震える手で封を開ける。すると、ペラっと一枚だけコンサートのチケットが入っていた。手紙は添えられていない。ただ、一枚のチケットのみだ。――桐谷静ピアノコンサート 十八時開演――「すごい、桐谷くんのコンサート……。え、明日じゃん!」日付を確認して春花はチケットとカレンダーを交互に見る。ちょうど明日は早番で、レッスンも夕方に一つあるだけだ。職場からすぐにコンサートホールへ行けばギリギリ開演時間に間に合うだろう。春花はごくりと唾を飲んだ。高校生の頃ずっと好きだった桐谷静。一時は同じ夢を見て切磋琢磨したあの日々が、春花の脳裏にまるで昨日のことのようによみがえる。「チケット、送ってくれたんだ……」感動に似た喜びが体の奥からわき上がり、春花はチケットを見つめながら胸がいっぱいになった。
いつもより少しフォーマルな服を着て、いつもより少し化粧にも気合いが入った。春花は鏡の前で角度を変えながら何度も自分の姿を確認する。乱れたところはないだろうか。春花と静は高校を卒業してから一度も会っていないが、静が益々魅力的な男性になっていることを春花は知っていた。それは街に掲げられているポスターであったり、テレビを賑わすワイドショーから得た静の情報だ。静は高校生のときもかっこよくて優しくて思いやりがあって、春花は何度も告白しようと思った。けれど告白してもしフラレたら、もう一緒にピアノを弾くことができなくなるかもしれない。この幸せな時間が一瞬で崩れ去るかもしれない。そう考えると、どうしても告白する勇気が出なかった。ずっとキラキラした綺麗な思い出として残しておきたかったのだ。今さら静とどうこうなる気はない。だがそんな気持ちとは裏腹に、春花は無意識に身なりを整えていた。駅前の花屋で足が止まる。花束を持っていったら迷惑だろうか。そんなことを思いつつも春花の気持ちは高まりを抑えられない。「すみません、花束を……」今できる最大限のお祝いをしたい。春花は静のイメージである淡い色合いの花を見繕ってもらい、胸に抱えて会場へ急いだ。会場では花束受付と書かれた専用のスペースが儲けられており、すでにたくさんの花束で溢れていた。その花々はとても豪華で美しく、春花は自分の持っている花束と比べて落ち込んでしまう。急にみすぼらしく思えてしまったのだ。「花束の受付はこちらです」「あ、はい、すみません」声をかけられて春花は急いで受付へ花束を託す。「こちらにお名前のご記入をお願いします」「……はい」ご芳名と書かれた紙に山名春花と書く。このたくさんの花束の中では春花の花束は埋もれてしまうだろう。名前を書いたとしても、果たして本人に見てもらえるかわからない。(有名人だもの、直接渡せなくて当たり前よね)頭の中では理解しているものの、やはり一言静にチケットのお礼を言いたかった。静は有名人だとわかっていても、同級生なのだから簡単に会えるのではないか、そんな甘い考えでいた春花だったが、静はもうずいぶんと遠いところにいってしまったという実感がわく。春花の手の届かない、遥か先にいるのだ。
満員のコンサートホールの中央前列を指定された春花は、先程からソワソワと落ち着かないでいた。後ろの方や端ならともかく、舞台から近いここは明らかに特等席なのだ。自分がいていい場所なのだろうかと何度もチケットを確認するが、席の番号は間違いない。ブザーが鳴り、ホールが薄暗くなった。ざわざわとしていたホール内も波が引くようにしんと静まり返る。その刻が近づくにつれて、春花の心臓はドキドキと高まっていった。パッと舞台に照明が輝き、舞台袖にスポットライトが当たる。わき起こる拍手に春花は肩をびくつかせながら、遅れて手を叩いた。カツカツと足音が聞こえる距離に、心臓がきゅっと音を立てる。タキシードに蝶ネクタイ。スラリと伸びた手足はスタイルのよさを引き立てる。かっちりとセットされた髪の毛は高校生のときとは違って、大人になったことを証明しているようだった。(これがピアニスト桐谷静……)あまりの美しさに見とれていた春花だが、ふと目が合った気がしてまたドキッと肩を揺らした。その流した目線は春花をとらえるとしばらく留まっていた気がしたのだ。(まさかね、偶然でしょ?)煌々と照らす照明は客席からは舞台がよく見えるが、舞台から客席はほとんど見えないはずだ。例え見えていたとしてもうっすらで、目が合うようなことはないだろう。それでも春花の気持ちは益々高揚していった。グランドピアノが照明によってより一層厚い存在感を出しているのに、舞台に立つ静はそれに負けないくらいの圧倒的存在感を醸し出していた。まだピアノに触れてさえいないのに、静の立ち振舞いは春花の心を揺さぶり続ける。
しんと静まり返るなか、ポロン……と演奏が始まった。普段聴いているCDの音源とは似て非なる重厚なグランドピアノの音。力強い音も繊細な音も、その音一つ一つを静が紡ぎ出していることに春花は鳥肌が立つほど体が震えた。鍵盤を叩く音の響きのみならず弾いている動作までもが美しく、静も含めすべてが芸術作品のようで観る者を魅了して止まない。これが、ピアニスト桐谷静の魅力なのだろう。春花は余計なことを考える余裕もなくなって、じっと静の演奏を見つめていた。静の繰り出す音楽という優しい空間に身を委ねる。それはまるで海の中を漂う海月のように、ふわふわ、ふわふわ、と。圧巻の演奏が終わり拍手喝采で幕が閉じた。ホールの照明が灯りまわりの客がぞろぞろと出口に向かって歩き始めるも、春花はしばらく呆然としていた。演奏の余韻が体中に広がって感動に包まれる。(すごかった……)感動を胸に、春花も遅れてホールを出た。外はすっかり暗くなっている。携帯電話の電源を入れて時間を確認し、最寄り駅まで歩き出したときだった。「山名!」突然背後から名前を呼ばれ、春花は振り向く。「……桐谷、くん?」息を切らしながらそこに立っていたのは、タキシードの上着を脱いだ軽装の桐谷静だった。
静はまわりに配慮しながら春花を人気の少ないところへ誘導する。先程まで演奏していた静が姿を現したとなれば大騒ぎになってしまうからだ。春花もそれを察知し、こそこそと隠れるように身を隠した。もう手の届かないところにいると思っていた静が春花の目の前にいる。高校のときと変わらず「山名」と苗字を呼んでくれる。その事実が何よりも嬉しかった。「山名、来てくれたんだ」「うん。桐谷くん、今日は素敵な演奏ありがとうございました。チケットも」会話をするのは実に五年ぶりだというのに、二人の間にぎこちなさはまったくない。むしろ再会できたことの喜びが溢れ出てくるような、そんな気持ちの高まりがある。「うん。来てくれて嬉しいよ」「夢を叶えたんだね、本当にすごいよ」「山名はピアノ続けてる?」「うん。楽器店で働きながらピアノの先生をしてるよ。まあ、桐谷くんとは雲泥の差だけどね」自虐的に笑いながら、春花は感傷的な気分になった。静との差を自ら評価してしまったことでなんだか惨めな気持ちになる。「山名……」静が口を開くと同時に、春花の携帯電話がけたたましく鳴り出す。ビクッと肩を揺らしながら春花は携帯電話を取り出す。誰からの着信か大方予想はついていたが、春花は画面に表示された名前が思っていた通りの人物で、ガックリと肩を落とした。
「ちょっとごめんね」「ああ、うん」静に断りを入れてから、春花は電話を耳にあてた。「……うん、今仕事終わって帰るとこ。だから仕事だってば。……すぐ帰るから」やはり電話の主は高志で、今どこにいるんだ、帰りが遅いなどと文句を連ねる。ため息深く電話を切ると、静が怪訝な表情で春花を見ていた。「あ、ごめん、桐谷くん」「山名、もしかして無理やりコンサート来てくれた?」「え? ああ、いや、無理やりっていうか、桐谷くんのコンサートに来たかったのは本当。……実は彼氏の束縛が激しくて、内緒で来たの」「彼氏の束縛?」「あはは、もう、困っちゃうよね。束縛なんてさ」笑いながら何でもないように言う春花だったが、静の表情は益々強張った。そしてうかがうように聞く。「山名、今幸せ?」「え?」「彼氏に束縛されて幸せ?」ドクンと心臓が嫌な音を立てる。その確信を突いた問いは、春花の心をざわざわとさせて落ち着かない。「……ど、どうかな、あんまり幸せじゃないかも」「山名……」「ごめん、そろそろ帰るね。これからも頑張ってね」春花はふいと目をそらすと静の元を去ろうと足を踏み出す。だが、ガシッと左腕を掴まれ驚きのあまり足を止めた。「待って。次も来て」その意思の強い綺麗な瞳は、春花をとらえて離さない。春花は小さくすうっと息を吸い込んでから、「うん」と頷いた。その答えを聞いてから静はそっと手を離し、春花は控えめに手を振ると急いで夜道へ消えていった。静は複雑な気持ちで、春花の姿が見えなくなるまでずっと後ろ姿を見つめていた。
「ああそうだわ。この機会にあなたに文句を言いたかったのよね。確かにあなたはすごい。この若さで海外公演を大成功に修めた。ピアニスト桐谷静は立派よ。でもプライベートの桐谷静のことを私は知らない。ニュースや週刊紙で報道されてることしか知らないわ。なあに、あの三神メイサとの熱愛報道」「あれは……」「違うって言いたいんでしょう? そうかもしれないわ。だって私の知ってる桐谷静は、間違いなく山名さんを愛していたもの。三神メイサに心変わりするなんてあり得ないと思う。だけどね、その報道を聞いたときの山名さんの気持ちがわかる? それに対してちゃんとフォローはしたの? してないなら、あなたは山名さんではなく、三神メイサを取ったのよ。まあ報道なんてあることないこと書くからね、誰も鵜呑みになんてしないでしょうけど。でも日本で待ってる山名さんには、とんでもなくつらいことだったでしょうね」「そんな……」静は絶句した。春花のことを愛している。きちんと言葉にもしていたつもりだった。けれどそれは本当に春花に伝わっていたのだろうか。もっともっとできることがあったのではないだろうか。春花のことを一番に考えていると思っていたのは独りよがりで、結局ピアノのことが一番だったのだろうか。一番に考えなくてはいけないものを、間違えたのかもしれない。
葉月の葛藤が、静への質問に代わる。「……どうして居場所を知りたいの? あなたたち、別れたんじゃないの?」春花からは静と別れたと聞いている。だからきちんと二人で納得しあった上での別れだとばかり思っていたのだが。静の悲痛な表情に、それは違ったのだろうかと葉月は察した。「別れてなんかいないです。俺が海外に行ったのも春花が背中を押してくれて……」「そっか、あなたたちちゃんと話し合いをしなかったのね。山名さんもバカだわ。なんでも自分で背負いこむんだから。本当に困った子よね」葉月はひときわ大きなため息をつく。辞めると退職届を渡してきた春花のことを、もう少し気にかけてあげたらよかっただろうか。そうだとしても、結果は変わらなかっただろうか。葉月は静をまっすぐ見据えて、事実を述べた。「店の前で事件があったでしょ。その事件のことを嗅ぎまわっているマスコミが店に来たの。そのときは追い返したけど、山名さんは自分のせいで桐谷静に迷惑かけたくない、汚点のない桐谷静でいてほしいって、責任を感じたみたいよ」「春花が汚点なわけないじゃないですか!」「そんなこと私だって知ってるわよ。だけど山名さんの気持ちもわかってあげて。桐谷静を誰よりも応援していたのは山名さんよ。だから自分の気持ちは押し込めて、あなたの背中を押したんでしょうね。それに山名さんの意思は固いのよ。悪いけど、私も山名さんと付き合いが長いのよ。私は山名さんの味方なの」フンと鼻であしらい葉月は仕事に戻ろうとして、もう一度静に向き合う。
何も手掛かりが掴めない静は、春花の勤め先の楽器店を訪れていた。「山名さんね、辞めたのよ」「辞めた?」素っ気なく答えられ、静は思わず語気を強める。自分の元に通う生徒たちを見捨てることができないと言っていた春花を知っているだけに、葉月の言葉はすんなりと信じられなかった。「春花のところに通っていた生徒さんたちはどうなったんですか?」「辞めてもしばらくはレッスンだけの契約で働いてくれてたのよ。でも時間をかけて生徒さんたちにも説明して別の先生に代わってもらって、今はもう来ていないわ」「それで、春花は今どこにいるんですか? 久世さんなら知っているんでしょう?」静は前のめりになる。春花の安否を確認するため葉月に電話をかけた時、「春花は元気だ」と告げられた。何かを隠しているようなかばっているような、そんな態度に違和感を覚えていたのだ。葉月は困ったようにため息をついた。もし静が春花を訪ねて店に来た場合、自分の居場所は知らせないでほしいと春花から頼まれていた。その場では了承したものの、葉月自身それが正しいのか分かり兼ねている。春花と静、二人でいるときの雰囲気は羨ましいほどにとても幸せそうに見えていた。だからこの先もずっと二人の関係が上手くいってほしいと願っていたのだ。
春花の消息を尋ねるには、勤務先の楽器店が手っ取り早い。静はさっそく電話をかけてみる。『お電話かわりました、店長の久世です』「桐谷静です。お世話になっております」『どうかされました?』「あの、春花と連絡が取れないのですが、春花はいますか?」『今日はお休みなの。でも元気だから心配しなくても大丈夫よ』「……あの、春花に連絡がほしいって伝えてもらえますか?」『わかった。伝えておくわね』「はい、すみません」ひとまず春花が無事でいることだけは確認でき、静は胸を撫で下ろす。ただ、音信不通になった理由は未だにわからない。そして葉月との会話にも違和感を覚えたが、彼女の変わらぬ明るい声にそれ以上の追求はできなかった。 どうにか最低限の公演を終え責任を果たした静は、その後に企画されているものはすべてキャンセルして日本に戻った。一刻も早く春花の消息を知りたかったのだ。久しぶりのマンションは、自宅だというのにしんと静まり返りひんやりとしている。まったく人の気配がない。「春花?」声をかけながら一部屋ずつまわるものの、そこに春花の姿はなかった。春花だけではない。猫のトロイメライもいないし、何より春花の荷物がひとつもなかった。まるで最初からその存在はなかったかのように……。「……どういうことだよ?」なぜあの時すぐに帰国しなかったのか。 すべてを投げ捨ててでも帰国すればよかった。「春花、どこに行ったんだよ!」静の叫びは誰に聞かれることもなく、そのまま冷たい空気の中に溶け込んで消えていった。
ピアノを弾くのは楽しい。世界中の人を魅了することは高揚感がありとても気持ちがいい。もっともっと上に行けるのではないかと思わせてくれる。壇上でもらう拍手は何物にも代えがたい宝物だ。だけど足りないものもある。 それは春花の存在だ。一度は失いかけた演奏の楽しさを、気づかせてくれたのは春花だった。いつだって応援してくれるのは春花だけだった。いくら有名になってもいくら賞を取っても、心のどこかで満たされないものがある。それは隣に春花がいないことだ。静はそれにようやく気づいたのだ。静は春花に電話をかけたが留守電につながってしまった。それもそのはず、時差があるのだ。春花とは時間を合わせないと、仕事中だったり深夜だったりしてしまう。静は自分の浅はかな行動を恥じ、また明日時間を見計らってかけ直そうと気分を落ち着けた。だが翌日になっても、大丈夫だろうという時間にかけても、留守電にメッセージを入れても、一向に春花から返事が来ることがなかった。そしてさらに数日後には電話も繋がらない、いわゆる音信不通になってしまったのだ。嫌な予感がした。 いや、嫌な予感しかしない。まさか倒れたとか? また襲われたとか?そんな不安が過る。今すぐにでも日本に戻って春花の無事を確かめたい静だったが、次の公演はもう決まっておりそれを投げ出すとなると多くの人、企業に莫大な迷惑がかかる。天秤にかけるようなことはしたくないが、社会人としての責任感も簡単には捨てられなかった。
◇祝賀会は一部マスコミの入場も許可されており、主役の二人が壇上に上がることになっていた。メイサは自然と静の腕に手をかける。ぴったりと寄り添い、離れるつもりはないようだ。静は振り払いたいのを我慢しながら、渋々そのまま壇上までエスコートしていった。わあっと歓声が上がり、「やっぱりお似合いよね」などという声が上がる。まわりに囃し立てられ気分を良くしたメイサは、ますます静に体をくっつける。「ねえ、私たちもこのまま恋人になりましょう。二人ならきっと素敵な音楽が奏でられるわ」「俺には恋人がいるって言ってるだろ」「何言ってるのよ。これから海外公演が増えるのよ。日本に帰らないのに待っててくれるわけないじゃない。それにあの子、身を引くって私に言ったのよ」メイサの発言に静の思考が一旦止まる。春花とメイサに接点などあっただろうか。「……どういうことだ? 春花に会ったのか?」「ええ。静の夢を邪魔しないでねって忠告してあげたの。おかげで海外公演も大成功よ。感謝しなくちゃね」「は? ふざけるな。俺はもうメイサと弾く気はない」「何言ってるの? これから私たちはもっと有名になっていくのよ。とても栄誉なことだわ」「栄誉なんていらない。俺はそんなもの求めていない」「じゃあどうして海外に来たの? 有名になるためでしょ? 私たちなら世界中に名を轟かせることができる。それの何が不満なの?」「不満に決まってる!」静は吐き捨てると、そのままメイサの元を去った。祝賀会もどうでもよくなった。
抱いていた恋心が数年越しの再会と共に実り、静と恋人になれたことが嬉しかった。 短い間だったけど、一緒に暮らせたことも幸せでたまらなかった。 ずっと一緒にいられたら……なんて考えるだけで未来が明るいようで心が軽くなった。だけど、静の夢を一番に応援しているのも事実。静の背中を押し海外に送り出したのは、彼に広い世界で輝いてほしかったからにほかならない。そんな春花の予想通り、静は海外で着実に実績を上げて活躍の場を広げていっている。本当に凄くて誇らしくて、涙が出そうなほど感動する。でもその一方で、自分の情けなさに胸が潰れそうになる。一生懸命やってきたピアノの先生も、左手首の捻挫から思うようなレッスンができなくなった。完治しているのに、いつまでもあの事件が頭の片隅で燻るのだ。そしてそのことで静にも店にも迷惑がかかっている。この状況に、春花の心は耐えられそうになかった。自分の存在がリセットできたらどんなにいいだろう。何もかも忘れて新しい世界に生きられたらどんなにいいだろう。そうやって考えるようになって、自分は心が病んでいるのだと気づき始めた。「それでこの先どうするの?」「ちょっとゆっくり休んで考えていこうかなって思っています」「大丈夫なの?」「大丈夫です、ちゃんと自分の将来も考えています。それでひとつお願いがあって……」葉月は春花の意思を汲み取って、今回は退職届をそのまま受け取った。ただ、上司として春花の心の闇に気づいてあげられなかったことが悔やまれ、申し訳ない気持ちになった。
「私の夢はピアノの魅力を伝えること。でももうひとつ、静が世界に羽ばたいている姿を見たいんです。わがままなことを言っているとは承知しているんですが……」時折言葉を選ぶように話す春花を見て、葉月は困ったように眉を下げた。「そうね、新規の生徒さんを頑なに入れないから、まあそんなことだろうとは思っていたわ。時間をかけて身辺整理をしていたんでしょう?」「いえ、まあ、残っている生徒さんには申し訳ないのですが」「それは仕方がないわ。こんなことを言ってはなんだけど、あなたの幸せが一番大事よ。私はこの先も辞めるつもりないし、新人も育ってきてる。レッスンのことは気にしなくていいわよ。それで、桐谷さんについていくの?」「いえ、私は遠くから見守るだけで十分かなって。寂しいですけど」てっきり静と結婚、もしくは将来を見据えて春花も海外に行くのかと思っていた葉月だったので、春花の言葉にポカンとしてしまった。理解が追い付かず目をぱちくりさせる。眉を下げながら困ったように微笑む春花。葉月はハッとなって、その肩をガシッと掴んで揺さぶった。「ちょっと待って! どういうこと? 別れたの?」「いいえ、まだ。でも静には私はいないほうがいいって思っています。彼の重荷になりたくないので」「重荷って……。それはあなた、思い詰めすぎよ」「そんなことないです。ずっと考えていたので……」
家に帰り一人になると、今日の葉月と記者の言葉が思い起こされて胸が潰れそうになった。明らかに静のスキャンダルを狙っているような質問に、春花は身震いして自分自身を抱きしめる。今日は葉月のおかげで引き下がったようだが、きっとまた来るに違いない。もしかしたら他の記者も来るかもしれない。そうなると、輝かしい静の活躍に自分のせいで泥を塗ることになるかもしれないという不安が渦巻いた。元カレである高志とトラブルになってしまったことで、こんなことになっている。この先、静にまた迷惑をかけてしまったらどうしよう。誰よりも静を応援し、誰よりも静を愛しているからこそ、春花は一人悩み落ち込んだ。そっと左手首を撫でる。もう完治しているはずなのになぜだかシクシクと痛む。静のことだけではない、こんな不安定な状態のままピアノを弾き続ける事にも違和感を覚えていた。「ニャア」「トロちゃん、どうしたらいいと思う?」猫のトロイメライは春花にすりすりと頭をこすりつける。「トロちゃんだけは私の側にいてね」頭を撫でてやると、トロイメライは春花の足元で寄り添うように丸まった。そして春花は決意した。翌日、春花は白い封筒を差し出す。「店長、あの……」「どうしたの?」「辞めさせていただきたいと思って。今回はちゃんと私の意思です」「山名さん……」「ずっと考えていたんです。ケガをしてから前みたいに弾けなくて、どうしたらいいんだろうって」春花は一呼吸置く。葉月は急かすことなく春花の言葉をじっと待った。